まずは「病気は気づきのためではない(14)」を読んでね。
おまけに、失敗もしくは憂苦を感じた時に用いられる「気づき」は、高次の存在という第三者から与えられたもの、という理解を含んでいます。
(人は精神衛生上、自分自信に原因がある、という「気づき」を持つことができない。この編の7と8に詳細)
そのため、(14)の失敗から学ぶ上での、自己完結的な途中過程を明確にしようという意識が薄らいでしまいます。
では、あくまでも現実的な自己完結的途中過程の把握や明確化に取り組めば、失敗から学ぼうとしても問題はないのか。
そうではありません。
残念ならが、失敗を引き起こす原因や直接的要因というのは、成功のそれらよりも圧倒的に種類が多い。
だから、前者から学ぼうとするのは、あまりにも効率がワルいのです。
(もちろん、失敗の原因を知るのもとても大切だよ)
例え。
美味しい料理は、少ない。
また、それを作ることは難しい。
不味く手がけることは、簡単
なぜか。
不味くなる方法の方が、圧倒的に多いからです。
もう1つ。
誰でも不健康になる方法は、いくらでも思いつきます。
しかし、健康になる方法はなかなか考えられません。
人を病気にさせる因子は、無限といっていいほどに溢れ却り、その代わり(?)決定的に健康にさせる因子は、少ないからです。
失敗の原因を1つ1つしらみつぶしに探していくことは、学問上では有益ですが、日常生活においてはこれほどに非現実的な方法はありません。
一生を、それに費やすことになります。
だから、数少ない成功の原因を知り真似てしまえば、望ましい状態を手に入れられます。
とても、効率的です。
(決定的な成功を決めるのは、言語化できない才能や感性、偶発的要素が大きいので、全ての原因を明確にすることはできないけどね)
しかし、「病気は気づきのため」という理解を重視してしまうと、
1・否定的な内省状態に陥り
2・負の原因ばかりを注視してしまうがために
3・成功した例から因子を抽出し
4・それを明確な言語に表し
5・再現していく
という意識と作業が、手薄になってしまいます。
人生を延々と、負の原因探しに注ぐことになります。
気づく度に、「健康や成功から遠ざかる」という矛盾に襲われます。
「病気は気づきのため」この理解を手放しで多用することに、深く疑問を持ってもいい時期に入ってきている。