まずは、「病気は気づきのためではない(17)」を読んでね。

第三者が絡んだ問題に苦しむ典型例です。
(子どもを悪者にするつもりはないよ)

病気は本来、その多くが自己完結的に発生している課題です。
(気づきの面があることは否定しない)

決して、他者を始まりにして起こっているものではありません。
(遺伝性疾患はさておき)

しかし、「気づき」という概念を持ち込むことで、子育てと同じように第三者を主体とした難事に位置づけられます。
(この編の(7)を参照)

自分では操作不可能な存在であり、「病を与えた何者かからの許しが出るまで、消え去ることはないのだ、」と。

その認識が、病気だけにとどまるのであれば、さほど厄介ではありません。
しかし、そうはならない。
その他に発生している日常生活全般における疾苦に対してまで、及んでしまいます。

1・感情は物事を細分化して捉えることができない
2・にもかかわらず、思考は感情から生まれている

ために。

1について。

感情は、極めてアナログ的なので、出来事別に割り切って細分化することはできません。

仕事が失敗して落ち込んでいるという感情状態は、私生活全般においてもしつこく侵襲してきます。
その反対も、よくあります。
仕事により私生活が支えられているのは事実ですが、何の利害関係のないバーベキューまでつまらなくさせてしまうのは、その典型です。
感情が不必要に、多岐に渡り連動してしまっています。

2について。

思考と感情は、相反するものと認識されがちですが、どんなに論理的な思考であれ、感情を起点とした親子関係にあります。

ウツという感情(?)傾向の人は、可能性を狭める結論を導きがちです。
ソウ状態にある人は、誇大的な推論を展開します。
怒りが強い人は、批判的な論評を展開します。

感情により、思考の質や種類が決定しています。

アスペルガーの多くは(特に内向型)、神経症的な気質を持っています。
事実、臆病で情緒が乱れやすい。
感情的な人種です。
しかし、彼らの多くは論理的な思考を得意とします。
小説よりも、論文やそれに近い情報を積極的に入出力します。

神経症的気質が、論理的思考を生み出しています。

続く。