まずは、「結婚について(10)酷薄な生殖戦略としての一面とスパンドレル理論」を読んでね。
先述の通り、男女関係における現実次元での唯物的根源的な繋がりの目的は、種の保存にあります。
古今東西に関わらず、それを達成する上で、女子の方が圧倒的にリスクが高い。
おまけに、莫大な「無力感」も有している。(男も無力感に苛まれている)
必然的に、「男は女子を守る」という役割を、課せられるようになるのです。
言い換えれば、それを放棄する男は、女子を危険に曝す穀潰しでしかありません。(障がいで立ち行かなくなっている男には、この論は当てはまらない。彼らは、批判されないでいい)
不快因子にすぎません。
人は、悟りを超えた悟りを手に入れない限り、防衛本能から抜け出すことは出来ない。
ゆえに、役割の達成、その上ではじめて、愛、神性、魂の学びに取り組めるようになるのです。
では、子どもがいない、あるいは巣立った場合であったとしても、男女間におけるその役割の位置づけは変わらないのか。
もちろん、異なることはありません。
1.現代社会においては、男女格差の大きい歪んだ労働市場を中心に、女子の方が生きるだけでも負担が大きい
2.人の本能は、生まれてから死ぬまで延々と潜在的な次元において躍動し続けるため、スパンドレル理論も生涯に渡り適用される (生殖能力のない幼稚園児やお年寄りも恋をする)
ために。
だからこそ、子どもの有無にかかわらず防衛本能とその由来的な特性である「酷薄な生殖戦略の一面」を、考慮する必要があるのです。
結婚生活を、円滑なものにするために。
女子を守るために。
しかし、人は人類の気質や長い歴史に内包されている冷淡さと対峙することを、嫌がります。
実態のない浮遊的な温かさで、捉えようとします。
結婚、男女間にも、それが及びます。
要は、過ぎた楽観視を行なってしまい、ガン細胞のように、問題を潜在的な次元で肥大させてしまっているのです。
それが表層化した時には、手遅れになっています。
あるいは、修復までに多大な労力を費やすことになるのです。
続く。