本題前のぼやき。 発達障がいで苦しんでいる親子に対して何も結果を出せない教育評論家や心理カウンセラー、怪しい祈祷師、ヒーラーほど、環境操作や小手先の技術で即効性を持って大幅な改善を示すと「それは本質的ではない」というオカルト的な批判を展開するんだよね。
あいつら頭おかしい。
多動傾向のADHDはアスペルガー人よりも、「個性」という言葉を好みます。(吉濱の偏狭的認識と信じたい)
もちろん
・改善に取り組めない自分への嫌悪
・ADHDへの劣位的偏見的認識から生まれる劣等感
を回避するための防衛として用いている面もあるのは事実ですが、決定的な要因としては
・1勝9敗の1勝だけを強く記憶して、自分への印象操作を行なっている
ことがあげられます。
多動傾向のADHDは、療育を放棄しても先天的に備わっている何らかの特異的能力を時々は発揮します。
・動物的な勘
・発想力
・偶然的な引きの強さ
など。
それに加え彼らの多くは、過去のしでかした体験を反省改善しようという意識や行動が欠落しているため、成功体験だけ色濃く残ってしまうのです。
すると、今まで上手く行ってきたことが多いのだから、なぜに否定的な症状という理解を持ち込まなければならないのかという理解へ至ります。
ただ、他人とは異なった箇所が多くあるのは事実として認識しているので、それを個性と呼ぶようになります。
当人はいいでしょうが、周囲は巻き込み続けられ苦しみは重なります。
にもかかわらず、彼は世の中を良くしたいなどと容易く口にします。