まずは、「病気は気づきのためではない(9)」を読んでね。

当然のこと、来談者の体調は回復しません。
それどころか、悪化してしまいます。
しかし、セラピストやヒーラーは自分に責任があることに「気づく」可能性は、極めて低い。

1・健康法に対して、情緒や印象だけで捉えて正しさを判断しているがために
(動物性タンパク質は超重要栄養素。でも、生野菜の写真と内蔵剥き出しの生肉のそれを観れば、多くの人は前者に爽やかな「印象」を持ってしまう。実際、健康系の広告にふんだんの生肉が載ることはない)
2・論理的な再検証という姿勢を忘れ
3・それゆえに、最善を尽くしているという錯覚に陥り
4・改善しなかったとしても、現実的な方法としての自分の落ち度に注意は向かず
5・ただ、罪悪感や未熟さという最後の客観的再考に繋がる感情は生まれるが
6・気づきという概念をおぼえてしまったがために
7・来談者には「学ばなければならない問題がある」という合理化による情緒的な回避が起こり
8・その結論にセラピスト、ヒーラー自身が深く得心し
9・いよいよ1から7までの自動思考が延々とくり返されて

しまうゆえに。

1~5はさておき、「気づき」を知ってしまったがために6~8が発生するのはなぜなのでしょうか。

それは、「病気は気づきのため」というのは、一種の本質、根源論だからです。

続く。