これも5年前の。
今読み返すとのたうち回るほどの恥ずかしさを覚えるけれど、今後の向学のために再掲載。

当然ですが、水がなければ、命を保つことはできません。

比肩のない、貴重な存在です。

しかし、日本国内において、誕生日に、ペットボトルに入ったミネラルウォーターだけをもらえば、絶句します。

大切な日に、「価値のない」モノを、「渡しやがった」という憤慨が生まれているからです。

「たかが水」です。

国内では、水が溢れかえっている。

それが、彼の重要性を、汚泥に貶める要因になっています。

「たかが電気」は、それと同じ発想に基づいています。

生まれながらに、電気に満ち足りた生活を送っている。

だから、その重要性を認識できない。

自然と「たかが電気」と、口をつきます。

そこに、感謝はありません。

有難みを失った人間は、傲慢です。

「たかが電気」は、そういった心理構造が生んだ、「迷」文句なのかもしれません。

 

 

【発達障害とどう向き合うか】(実務教育出版)