発達障害人が、過酷なストレスを少しでも減らして日常生活をサバイバルするには、才能を発揮できる適職につくことが大きな要因となります。

彼らはそのことを本能的、体験的に知っているので才能を探します。

そこで自分の基準を用いて、才能の有無を見分けるのですが、共通して誤ったそれを複数持ってしまっているがゆえに、見つかっているのに才能と認識できず、遠くを求めてしまっていることが多々あります。

代表的なものとして「才能には特別の価値や貴重性を感じる」が、あげられます。

残念ながら大半の場合は、間違いです。

それどころか、「こんなこと当たり前、誰だってできるんじゃないの」と蔑めて(?)しまいます。

日本の電車の定時発着、東京の水道水の美味さ(異論はあるだろうけれど、1200万以上いるのにこの水の美味さは世界的に驚異)、郵便や宅配業者の郵送の仕組み。

これらは成熟国も含めた世界からみれば、魔法です。

日本の才能です。

しかし、日本人事態が全く気がついていない。

当たり前に扱っています。

この才能を運営している当事者たちも、海外から凄さを指摘されて、ようやく世界展開に乗り出しています。

個人にも同じことが言えます。

吉濱の来談者の複数が、写真記憶や絶対音感、瞬間計算の能力を持っています。(こういった特殊能力を持っていないといけない、発達障害ではない、という趣旨ではない)

同時に彼らの多くは、凄いと思っていません。

誰でもできるものだと思っている、あるいは学生時代まではそう思っていた、というが実態です。

ここまで特殊な能力であったとしても、「貴重さ」を感じないのですから、日常生活の則したものであればなおさらです。

結果として、才能を否定します。

遠くに「真の自分」を求めます。

見つかることはありません。

自分の正体が分からなくなります。