まずは「体の感覚に従ってはいけない(14)」を読んでね。
そのために、爆発的な知識の記憶が欠かせなくなるのです。
「・既存の有を圧倒的な量にする。」
これが少ないと、つなぎなおしていくための材料が限られてしまいます。
用意された積み木の数が少ないと、創造できる建物(?)の種類もすぐに限界を迎えてしまいます。
「・それらを幾通りにも、つなぎなおす」
これを可能とする中核的な能力は感性という抽象の産物ですが、それすらも知識量の有無によって決まってしまう面が多いのです。
感じるためには、体内や意識にその分野における受容体が存在しなければいけません。
それを作るために、知識や情報入力が至要となるのです。
今まで、分かりやすいJ-POPばかりを聴いていた人にとって、ジャズやクラシックは苦痛でしかありません。
しかし、それを我慢して聴いているとあるとき突然、良さが分かってきます。
音楽や美意識の感性が育ったのです。
ファッション誌を毎日観続けていれば、服の「組み合わせ」という「つなぎなおし」が可能となります。
情報入力の継続により、スタイリングという創造力が開発されたのです。
「創造力を奪ってしまう」と、詰め込み教育の弊害が唱われて久しい。
その「論拠のない漠然とした雰囲気的な理解」に伴い、記憶することが創造することと対極に位置づけられてしまいました。(たぶん)
大間違いです。
知識が、創造の根源となるのです。
小説を読まない小説家は、ほとんどいません。
彼らの多くは、自宅に莫大な本の資料を抱えています。
司馬遼太郎さんは、一冊の本を書くにあたり軽トラック一杯に積まれた本を読み込んでいました。(秘書に読ませたこともあったけど。)
音楽を聴かない作曲家も、極めて少数です。
難聴になるまで、他人の曲を聴いています。
僕の知り合いの音楽プロデューサーの一人は、「10万曲を聴けば誰でもそれなりの音は創れるよ」と言っていました。
映画の黒沢監督は、生前にいい映画を創るコツを質問されて、以下の通りに答えました。
「いい映画を創るなんて簡単だよ。今まで自分が観てきた映画の優れた場面を憶えておいて、それらを少し変えて組み合わせればいいんだよ」と。
知識記憶が前提です。
けっして、無から有的に創造しているのではないのです。
続く。