現在のスピリチュアルで展開されている理解に、人生を改善させる力はない。
それどころか、悪化させてしまう可能性が高い。
とても近い将来、スピリチュアルの住人のなかでも特に感性の優れた人々は、気づくことになる。
そして、既存のスピリチュアル理解は急速に瓦解し、新しいそれらが台頭する。
ようやく、スピリチュアルは役に立つ次元へと昇華する。

この「分野」は、未だ黎明すら迎えていない。(ヨシトラダムス)

病気は気づき学びのためではない。

旧スピリチュアル 病気は気づき学びのため
新スピリチュアル 健康は気づき学びのため もしくは病気は気づきや学びを得やすい現象にすぎない。

病気は気づき学びのため。

スピリチュアル界(?)で長年に渡り正しい(?)理解として認識されてきました。
しかし、その言葉に触れる度に、僕は強い疑問を抱いていました。

なぜ、「健康は気づき学びのため」のためと言わないのだろう、と。

健康でいるためには、当然のこと、理由や原因が存在します。(物理的な健康法にとどまらず、思考や言葉使いも含め)

それらを適切に把握することができれば、高い再現性を持って日常を快適に過ごすことができる。

さらには、その理解を共有し合えば、世の中の調和は加速度的に高まります。

当たり前の話です。

例えば、料理の腕を上げたい。

どちらに習うのか。

鮭缶の開け方しか知らない(僕の知り合いと本を読んでくれた人には分かるネタ)ズブの素人の吉濱と、三ツ星を取っているシェフ。

後者しか選択肢はありません。

もちろん、前者を反面教師として活用することも可能ですが、効率は圧倒的にワルイ。

失敗の方法は、成功のそれよりも多く、無限と言ってもいいかもしれないので。

だから、良い状態や方法から学んでしまった方がいい。

健康も同じことです。

しかし、この理解に多くの人は納得できません。

相変わらず、病気は気づき学びのため、と連呼してしまいます。

何故なのか。

感情という怪物が、合理的思考を駆逐してしまうからです。

続く。