雑誌サイゾー10月号の75ペイジに、僕が出てるみたいよ。
まずは、田舎暮らしなど望んではいけない(24)を読んでね。
エゴを言葉によって定義するためには、多方面に渡る言語や理解が必要となります。
一概に、もしくは一言で、決め付けることはできない。
それでも、「愛情の欠乏=エゴ」と捉えても、さほどズレた認識ではありません。
愛情の度合いを測る簡単な方法として、思考の多様性や量を用いることができます。
人は、愛情を注いでいる分野においては、仕事などの強制がなくとも
・知識が爆発的となり
・ある程度は、的確な理解を持ち(歪んだ理解に至ることもある。)
・一般論に収まらない異質のフレイム(味方)を持ち
・現実次元へと、落とし込む方策を打ち立てる
という、共通した表現を取るようになります。
・PCが好きな人はPC
・犬を愛する人は犬
への知識と理解が、ふんだんなものとなり、現実的な対応力も兼ね備えます。
言い換えれば、それらがない分野においては、愛情を傾けられない欠損状態といってもいい。(少し極端に言えばね。)
地球の自然環境や波動上昇、一般市民やお年寄りを考慮すれば、田舎暮らしには、深刻な問題が孕んでいることが簡単に理解することができます。
田舎暮らしを推奨する人間の多くは、それら問題をたった一つですら、指摘することができない。
思考していないのです。
大局的に的確な知識を、持ち合わせていないのです。
末端的な分野であるならば、構いません。
何の影響力もないので。
高層化、あるいは田舎暮らしにおいては、
・地球環境破壊
・次元上昇抑制
・病気
・貧困
・少子化
・通勤地獄
などの、社会全体の超重大事項が密接に絡み合っています。
個人や他人事で、済む話しではありません。
にもかかわらず、思考が停止してしまっている。
以上を踏まえれば、「田舎暮らしを望む者=世の中はどうでもいい=エゴの塊」という式を成り立たせても、見当違いではありません。
続く。