まずは、「病気は気づきのためではない(18)」を読んでね。

1・感情は物事を細分化して捉えることができない
2・にもかかわらず、思考は感情から生まれている

この1と2という性質が、「病気は気づきのため」という理解を、いつのまにか「苦しみの全ては気づきのため」という拡大解釈へと至らせるようになります。

日常生活における痛苦の度合いがごく軽微、もしくは発生頻度がわずかであるならば、その理解を持ち込んでもさほど問題ではありません。

しかし、多くの人は

・実際の出来事としてその反対状態にある
もしくは
・そうでなくても、「防衛本能上」、常に問題を見つけては頭を悩ます状態にある

(人は利便性を手に入れても、それに感謝するのは刹那。その後は別の不満を見つける。例え、iPodになって、煩わしいMDの管理はなくなったが、今度はCDの同期が面倒くさいと思ってしまう。人類史上、飢餓から抜け出せたのは奇跡だが、それと同時に味に文句をつけるようになる)

のどちらかです。

ゆえに、人は苦しみを常態的に、なおかつ大量に抱えることが宿命(?)となっています。

そこに、先述の拡大解釈という「癖」が、伸し掛かってしまう。
すると、日常生活の全てが、「高次の存在という第三者から与えれた気づき」で蔓延してしまいます。

しかし、その気づきには、抗うことはできない。
嵐が過ぎ去るまで、耐え忍ぶしかない。
ただ、過去、痛痒が途切れた時期は存在しなかった。
必然的に(?)これからも未来永劫的に、日常生活は晴れることはないだろう、という結論に至ってしまう。

人にとって、改善不能という絶望が確定された未来を約束させられるほど、やる気を奪われることはありません。

続く。